「障害」とは何か ~障害による傷つき/楽しみ/癒し~

(1)「障害」と傷つき
 私は、「障害」による傷つき(生きづらさ)の根幹を、理解されない「孤独」にあると考えます。自己心理学の創始者H.コフートは、人の心が安定してあるために、自分の体験をあたかも自分のことのように共有し、同じような体験をしている他者(心理的双子)の必要性を説きました。また、統合失調症を治療したS.H.サリヴァンは子どもが親の庇護から離れて自立していく過程で同性の同年齢集団(自分の体験を共有できる他者)、チャムグループの重要性を指摘しています。
 しかし、「障害」を抱える者にとって、これらを適正に満たすことは、かなりハードルの高い試練となります。何故なら「障害」とは、本来オリジナルであり、そこに不随する体験も同様にオリジナリティに富んでいます。そのため、周囲からは同質の体験としての照り返しをもらうことが、非常に困難だからです。私は小学校時代を公立の普通級(学校)で過ごしました。周囲には、体に「障害」を抱える仲間がいませんでした。そこには純粋な子ども同士の関係がありました。自然に、自分と違う他者を好奇の目からとらえ、悪気なくからかわれたことも、底意地悪くいじめられたことも少なからずあります。また、何事もなく友達と遊んで過ごした時間の中でも、自分はみんと同じように上履きをはくことができない。走ることができない等々、あげればきりないくらいに、周囲との差異がありました。そのため仲間(チャムグループ)の中にあっても、本来は自然に出来上がるであろう同質の体験を共有している感覚に貧しく、自分は特別、ひとりぼっちと思うことが多々ありました。
 この世の中は「障害」のある/なしでいえば、「障害」のない人が大多数です。「障害」を抱えていきることは必然的に社会のマイノリティーを生きることにつながります。それ自体は数の原理であり、しかたがありません。しかし、マイノリティーは社会の中で良質な仲間関係を育む機会にも劣性に働きます。このことは本来、体にだけあった「障害」が健全な心づくりを歪ませて、第二の「障害」ともなりえます。

(2)「障害」と楽しみ
 精神分析の考え方によると、人はストレスを感じた際、自分なりの反応をし、対処しようと試みます(防衛機制)。中でも、「ユーモア」は自分が受けたストレスを笑いに変えて、外へ発散する健康的で良質かつ適応的なのストレスへの対応とされています。「障害」のある仲間同士でいるとき、自分のあるいはお互いの「障害」を「ユーモア」のネタとして使うことがあります。例えば、こんなふうです。
 ある日、私は最寄の駅へ向かって歩いていました。すると、歩調に合わせて、足元からコツン、コツンと聞き慣れない音がします。何事かと、自分の足元に目をむけてみると、それは私の右足(義足の部分)が一回転して、私の左足(義足の部分)にぶつかる音でした。私も初めは驚いたものの、そこは血こそ通っていなくて「自分の足」すぐに慣れて楽しくなりました。急ぎの用事で出かけるところだったので、コツン、コツンと音をたてながら歩いて、途中のコンビニエンスストアーでガムテープを買い、ぐるぐる巻きにして、目的地に向かいました。
 これは私の一番お気に入りの「障害」エピソードです。いかがでしょうか?この話をきいた私の友人の大半はゲラゲラ笑って、大喜びしていました。しかし、自分の「障害」を笑いものにするとはと気分を害される方、あるいはとても「障害」を笑うなんてモラルに欠く。何が楽しいのか理解できないという方もおありかと思います。確かに、毒っけが強く、どう扱っていいかに迷われるかもしれません。それでも、不思議なもので人は、いろいろな状況に慣れる(抗体ができる)ようです。そして、笑うようになります。

(3)「障害」と癒し
 あるプライベートでの出来事です。友人として、「障害」のある友達の悩みにふれた時、他者に対して自分と同じ苦しみを見ました。そして、その友人がその苦しみに耐えて、課題を達成した時、まるで自分のことのように嬉しく、どこか私の心の中で欠落したものが補われていくようにすら感じました。
 しかし、私はこのカウンセリングを仕事として行います。ゆえにご相談にいらした方の「癒し」となるように役割を遂行致します。その結果として、私自身が「癒される」ことはあっても、それは二次的な副産物です。ですから、私自身の「癒し」のために皆さんのカウンセリングを行うのではありません。


 カウンセリングの中で「障害」と向き合う

(1)障害について安心して、自由に語れる場所
 「障害」があることは、時代によって、その状況下によって隠されたり、自由に語ることがはばかられるテーマでもあります。また、その悩みを語る時、誰かの善意によって、そんなこといってはいなけない。もっと苦しい人がいるとか、頑張らないといけないと励まされ、自分が思うところを語ることすら許されない場合があります。ここでは、そんなことありません。まず思うところ言葉をすることからはじめて頂ければと思います。また、ご希望があれば、「障害」を抱えて生きるとはどんなことかお尋ね下さい。私一個人の体験にはなりますが ―それが、「私、一人じゃなかった。」といった双子のような照り返しのご提供となることを切に願って―お話することもできます。

(2)情緒に寄り添う
 私自身、先に述べた通り両足に「障害」があります。そのため、すべて皆様の「障害」を理解できるとは言いませんし、思いません。なぜなら、一口に「障害」といっても、人それぞれでオリジナリティ-があり、そこに不随するお気持ちも千差万別だからです。しかしながら、私も「障害」という同じカテゴリーについての悩みを苦しみ、耐えて、解決できる部分は解決し、出来ないことは今も考え続けて生きています。ですから、カウンセリングの中では、その視点から皆様と一緒に考え、悩み、試行錯誤したいと切に願っています。また、同時に皆様と私の違いも大事にします。そのため、わからないことはお伺います。ぜひ皆様の思いを教えて下さい。その上で、考え、悩みます。

(3)子ども/その家族のこころによりそえる場所
 小児科医でもあり、多くの子ども治療した精神分析家D.W.ウイニコットは「赤ちゃんなどいない。いるのは一組の母子だ。」といいました。これは、「障害」を抱えた子どもさんにもあてはまることだと思います。子どもさんが「障害」を抱えるということは、ご両親にとっても大きな痛み/苦しみ/悲しみを伴うテーマです。誰が悪いわけでもありません。しかし、苦しい。だからこそ、苦しいその胸のうちをどうぞ語って下さい。誰にもぶつけようのない、やり場のない思いに「やり場」を一緒につくりませんか?

(4)私の「障害」とカウンセリング ~私のカウンセリングはどんなところが違うか~
 カウンセラーは一つの役割です。その役割はこうなりたいと設定された目標の達成に対して、時に冷めたく突き進んでいく必要があります。私の両足にも「障害」があります。これまで、その「障害」と生きてきました。この先もそうです。この足で生きていきます。
 私が皆様のご相談を受けるとき、この視点は皆様が「障害」を生きる苦しみ/苛酷さ/…と同じです。ゆえに、「障害」に対する遠慮はありません。また、皆様がこれまで、そんなこと言ったって、あなたにはこの苦しみがわかるか?と(「障害」のない方)からの誠心誠意、善意の言葉に納得ができなかった/傷ついたことはありませんか。私はそれを同じ立場から理解した上で、感じることをお伝えして、支持して、共に考えます。そして、私は、皆さんに私自身のつらさを移しかえしての鏡としてみることになります。その時、私はカウンセリングという関係性の中で、自分自身の「障害」に向き合う苦しみ/苛酷さ/きつさをアンテナにして理解し、役割に徹して、カウンセリングを行います。

(5)心と体は別物です
 体に障害があることは、体の機能だけではなく、心が適正に機能することに対しても、「障害」として働きます。しかし、これは仕分けることができます。ただ、つらいです。そのテーマと向き合うくらいなら、「私は、「障害者」だから…」といって、その痛みに向き合わず、無かったとこにしてしまうことの方がはるかにらくです。そして、よっぽどのことがない限り、周囲にも「障害」はごく真っ当で、入ってこれない鉄壁の言い訳として機能してくれます。
 それでも、こそっと、自分の本音をのぞいてみませんか。「障害」があるために自分のやりたいこと、してみたいことをあきらめていませんか?確かに、体の「障害」のために物理的に出来ないこともたくさんあるのは事実です。しかし、そのせいにして、本当は出来ること、形を変えればトライできること、そのものは叶わなくても、代用がきくはずのものをあきらめてはいませんか?それは、体の「障害」ではありません。心の「障害」です。それは私たち(「障害」を持って生きる者)にとってモンスターのようなそれは恐ろしい存在です。あまりに恐ろしすぎて、存在すら認めたくありません。ですから、一人で立ち向かう必要はありません。でも、あなたの「これをやりたい(けど、「障害」のためにできない)」という気持ちと周囲のお手伝いがあれば必ず向き合っていくことができます。私もお手伝いします。

(6)私の体験 ~例外はありません~
 今はこのように「障害」のある方そのご家族の支援をする立場にあります。「障害」はありつつも、学校に行き、社会生活を営み、今があります。そこだけみれば、私の人生も決して捨てたものではないかもしれません。
 しかし、一たび「あなたは、「障害」のある一個人としてどのように「障害」と向き合った/合っているかと問われたら、正直言葉に窮することがあります。殊に、心理療法と出会い、それを学び始めてからは、その効用を自らに向けて実践してきました。例えば、家族療法の知見をもって自分の家族(原)家族/親子関係をみたら等々。―実は、こんなに苦しい体験はないのですが、私も/はそれを、皆さんに体験してもらおうという立場。自分だけがそれをしないわけには行きません。― 
 「障害」を持つ子どもは、「障害」を持つ子どもの親に言いたいことがたくさんあります。逆もまた、しかりでしょう。しかし、それを表現することはそう簡単ではありません。私は、生まれてこの方、両親の本音を聴くまでに相当の時間を有しました。それも私ではない第三者のセラピストに背中を押しだされ、恐々、両親にはそっぽをむいての第一歩でした。何故か。私は、まがりなりにも社会的立場を得るに至ったからです。それは当然、自分の努力もありますが、その努力を支えてくれる環境を両親からもらったからです。いつも「障害」がありつつも、まがりなりにもが成り立ちました。だからこそ、逆に子どもの立場からは何いえなくなるのです。そして、何も、きけなくなるのです。でも、世の「障害」を持つ子どものご両親へあえて、いいますがそれは子どもの側からしたら、ズルいことです。うまくいけばいく程、文句のいえなない関係が出来上がります。もちろん、分かりますよ。ご両親、あなた方もつらいこと。言いたくも「障害」を抱える子どもに「自分たちだって…」と言えないこと/言えなかったこと。
 このようなことは、程度の差こそあれ、どの家族にもあるものです。そして、家族が歳を重ねて、子どもたちが育ち、一見肩の荷が下りたように感じても消えません。―残念ながら。だからこそ、テーマとして扱える余裕ができたということはありますが― 
 ですから、どうぞこの場をご活用下さい。私はその苦しみを知るセラピストとして、自分の体験をアンテナにして理解し、心の中では「苦しい」とため息をつきながら一緒にとりくませて頂きます。

(7)トータルなサポート
 心理的なテーマに限らず、以下のようなことお手伝い致します。
 1. 補装具/義足/車椅子のつくり先探し
 2. ドクターの紹介 探すこと
 3. 各種福祉的制度/サービスを利用するにあたっての思い/ソーシャルワーカー探し

「障害」は体とも密接にかかわるテーマです。そのため、お医者さんとのおつき合いは避けて通れません。しかし、自分の思いがお医者さんに伝わらないあるいは表現したくないとったことご経験はありませんか。私には多々あります。その他、義肢/補装具/車椅いすなどを作ってもらないながら、一生懸命に対応してくれるのだけど、どうしても足に合わない。だけど、どこがどう、痛い/合わないかうまく伝えられず、つい諦めてしまう。そうした「障害」について種々のサービスを受けるにあたってのお悩みをお受け致します。
 逆に、「障害」を抱えた方に関わる専門職の方々、体のことは/義肢装具のことは/社会制度についてはわかるけど、それだけで先に進めない、自分の専門性だけでは立ち行かないと感じることはお有りではありませんか。そんなとき「障害」を対象化し、「障害」には「心」という側面がくっついているのだと考えてみると、現状を打破するきっかけがつかめるかもしれません。どうぞ、お気軽におこえがけ下さい。